アクセスカウンタ

プロフィール

ブログ名
Mの
ブログ紹介
zoom RSS

めんどくささ

2018/06/23 03:27
画像



トランプさんが国連人権理事会から離脱した。この国連人権理事会というのも不思議な組織で、中国やロシア、サウジアラビアやパキスタン、南アフリカとキューバなど首を傾げる国が入っている。発足時に、これではアメリカの理念に合わないと加盟しなかったアメリカが、オバマ政権で加入して、今回トランプさんが離脱したわけだ。

で、問題だらけのロシアがまた入りそうなのだが、シュールな団体がさらにシュールになるというものだ。

ただ救いなのは、人権問題ですねに傷を持たない国はなく、問題がない国は珍しい。なので発展的に話し合いましょうと言ったところが大きい組織でもある。そもそも普遍的人権という概念がまだまだ普及途中なので、こう言った結果になっている。


画像



この国連人権理事会離脱問題が、メキシコからの不法移民への不寛容政策から問題になった。17年の10月から徐々に始まった親子連れの不法移民を、親子分けて収容したのだ。人道的にどうなのかと思うが、これは法的な問題だ。どうも1997年の時に共和党が飲ませた条項にこれがあったようなのだ。ただそれは誰も発動しないと考えていたのが、発動したということのようだ。法的には正しい。不法移民の親は罰せられるが、子供には罪がない。なので逮捕後20日間は親子でいられるが、それを超えると法的責任を問われる親と、問われない子供で、法務局と保健福祉省に対応が分かれたわけだ。

急にこの厳密な運用を行ったために、場所が無いし資材もないという状況が発生、エマージェンシーシートを毛布がわりにせざるを得ないとか、子供に薬物を投与して落ち着かせるとか、そう言った行為が問題になっている。まあ、こんなに急に政策を変えられたために実務者が何もできずに最悪の事をしてしまったというのは同情するが、人道の問題ではなく人権の問題までやってしまったというのがある。


画像



問題なのは人権という概念だ。勝手に殺されないと言う生存権が第一に来る。これが最低ラインだ。だが誰に殺されないのかと言うことが曖昧だ。

自然発生的な人権と言うのはある。同じところでずっと暮らしていた人は人であり、よそ者は人の形をしているものとして人ではないと考えていた事もあるだろう。意思疎通が出来ればよそ者も人として認められる。ただ体が大きいとか色が黒いとか、表面的に見えることの差別や、宗教や職業、LGBTの問題なども昔からあった。ただ一神教の国とアジアのあり方とではかなり違うので、なんとも言えないのだが、差別=殺される国と、曖昧に殺されはしないが差別され身分が固定する制度がある。

生存権という自明のことが、地域によって濃淡が違うという、これが人権の問題だ。普遍的人権というのは高度な概念になる。

国民国家の成立はそれは画期的だった。法の支配を目指す上では、国民の概念から始めなければいけない。たとえばフランスはフランス語を話せてフランスの建国理念を理解できなければフランス人とは認められない。だが植民地時代を経て、フランス的で以上の条件を認められればフランス人と言う、広い国民概念だ。それでは日本は、同じような文化背景を持っていても、日本人の血筋でないと日本人ではないと言う考えだ。アメリカはいま揺らいでいるが、アメリカで生まれた子供はアメリカ人になる。

どう言ったことかといえば、国民国家では法の支配が前提になる。そこには国民の人権を国家は憲法と法で保証するが、国籍を持たない人物に対しての人権を国家は保証しない、この原則がある。勿論グローバル化と国際的な条約や国連組織への加入で、普遍的な人権はある程度はあるが問題はあり続けるのだろう。

差別がある限り、普遍的人権は保証されない。

アメリカの移民問題ではそれが常にでる。白人のプロテスタント国家だったはずなのに、黒人や中南米の諸国からの移民で埋め尽くされそうだという、その焦燥感だけで差別意識をむき出しにしている。


画像



人権問題を打破したのは科学だったかもしれない。人間のDNAはゴリラとそんなに変わらないしチンパンジーとも近い。人間と稲とは60%共通だ。

だが、DNAの発見、いやもう少し遡ってダーウインの進化論まで遡っても、ヒトの形でも人ではないと、社会が言い続けていれば、そこには人権は発生しない。

ものすごく問題のある話だ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


特に変わってはいないのだが

2018/06/22 03:18
画像



またしてもサッカーW杯で試合後のスタジアムのごみ拾いする日本人サポーターが話題になっている。

いや、日本人はそんなに凄くないから。逆にごみ拾いする方が、おかしい。確実に東洋の神秘なのだ。

日常だとあんなことはしない。確かに街中でゴミのポイ捨てとかはしない。でも土曜とか日曜のショッピングモールのフードコートの床を見てごらん。それどころではない、そのモールの床を見れば、ガムが吐き捨てられている。建物の中でもそうだ。屋外だとどうなってんだと言う。中国人は路上に痰を吐くといわれているが、田舎だと日本だって結構ある。酔っ払いがゲロを吐くのもあるし、立ち小便もなくなることはない。

この行為はたぶんJリーグのどっかのサポーターが始めた事だと思う。日本人的なのだが、ホームでの戦いの後というのは、結局家の後かだ付けでしょ。スタジアムはサポーターにとって家の意識がある。サポーターというコミュニティの家なら、パーティーの後は片付けも手伝ったりしますね。このノリでした。

ただここで相撲の土俵のような意識がでたと思います。フィールドはは土俵、そこは清浄であるべきでそこは特別な人が管理している。われわれ観客は客席を汚す事でフィールドを穢してはいけない。なので素晴らしいパフォーマンスを穢してはいけない。

でもね、神道系か仏教系かはわからないが、誰かがこの規範を作った。ホームでもないW杯の場所でやるのはなぜ?というのがある。拡張されたこの意識は、間違いなく海外からの報道で、お行儀の良さを褒められたからだと思う。褒められたからやらなければいけないのだ。

わたしはフリーガンの熱狂のほうが、なかなかに信仰告白のようで素直なような気がするのですが。ねじれた歴史の継承よりは、率直にローマ時代と結び付いている素直さが羨ましいです。

今年はセネガルのサポーターがゴミ拾いをするのが話題になっている。日本のマネをしているというより、なんか共感してもらっている気がしている。

ただこういった行動は、醒めた意識がある。そちらが興味深いものだ。次はセネガルとか、お掃除合戦になったら面白いな。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


とりとめもなく

2018/06/21 03:07
画像



昨日はサッカーW杯の予選で、日本がコロンビアに勝ってしまった。監督の急な更迭やらなんやらで盛り下がって言うたところの、ありえない勝利に国内が湧くかといえば、全くない。

なにしろスポーツ観戦すらも趣味と言わない人が増えているのだから、コアなサッカーファン以外は、決勝出場以外は無関心を決め込んでいる。メキシコがドイツに勝った以上に偶然だと誰もが思っているので、ここではしゃいだら恥だと慎重になっている。


画像



コロンビアが決勝進出を果たせなかったら、問題の選手は亡命するか帰国したところで殺されるか、と言われている。それは殺人率の高さからもそうなのだが、もう少しめんどくさい。

大統領選が終わった直後なのだ。中道右派のイバン・ドゥケ前上院議員に決まった。ただ彼は41歳。アルバロ・ウリベ 元大統領の傀儡になる可能性もある。だがもう一つ、今回の選挙は世界中で同じように、フェイクニュースやらなんやらが吹き荒れたようだ。二極化した言論の中決まったと言うのは大きい。

その中で、コロンビアで長年続いたゲリラとの和平合意を無視する可能性もある。国内ではこの内戦状態で国内難民が200万いるといわれている。長年の紛争がコロンビアの経済を蝕んできた。そして失われた命も多い。この対立を超えた筈の和平が、ゆらいでいる。

そして国内の腐敗問題。犯罪組織知行制の癒着も問題になっている。そして社会の問題なので簡単な解決法はない。

ここでW杯で日本に負けたのだから、ポピュリズムに走る可能性はある。


画像



その前に、サッカーW杯が始まっていたと言うことを、知らなかった。
忙しすぎて。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


ひとつの歴史の

2018/06/18 02:21
画像



今日は岩手大学音楽サークル連盟第58回合同演奏会というものを聞いて来た。ちょっと変わった音楽会で、吹奏楽と管弦楽と合唱はまだイメージできるが、マンドリンまではなんとか、邦楽の三曲まで混じっている。単独の演奏と、合同演奏があるのだが、今回はマンドリンと三曲と無難な組み合わせだったが、管弦楽や吹奏楽だと三曲との本格的な曲は現代音楽になってしまうし、全団体の合同演奏となればこれまた困ったことになってしまう。だが58年もやり続けたのはすごい。もともと三曲部の部員数が少なくなりすぎて単独公演ができなくなりそうだということで始まったといわれている。始まりは昭和35年だから学生運動も影響があるが、昭和14年生まれ辺りがはじめたとなれば少し違う。面白そうだったと思ったことと、イベントをやればお客が来た時代だったという事がある。ましてやこうした大掛かりなイベントであったから、昭和60年まではそれなりにお客が居たと思う。

で、今回で最後になってしまった。客数の現象に歯止めがかからなかったというのが理由だ。切っ掛けは6月末にやっていたのが、場所を取れなくて8月上旬にやって顧客が離れたことだった。この時邦楽器やマンドリンや管弦楽団や吹奏楽・合唱まであるワンストップサービスとして、小学校などに宣伝するべきだとアドバイスをしたのだが、結局できなくて、さらに顧客を減らすことになった。県民会館からマリオスに移ったのも大きい。都会ならいざ知らず、地方都市だと同じ町の真ん中でも駅の裏側というのと、ど真ん中というのでは意味が違うのだ。

ほんと、ビジネスモデルの説明みたいだが、そうなのだ。

歴代でも観客が減った時期があって、そこは創意工夫で乗り越えてきたのだが、この数年はそう言った改善が見られなかったというのもある。真面目になりすぎたのかもしれない。特に吹奏楽部が演歌メドレーとかジェーポップスメドレーとかやんなくなったというのは大きいかもしれない。

ただ1番の問題は、入場料を無料にしたこと。これで入場者数を増やそうと思ったのだが、やる側のモチベーションが下がって、工夫が消えたというのが大きいと思う。


画像



この58回目のパンフレットには、最後なのに合同演奏会のヒストリーが載せられて居ない。これは象徴的な事だと思う。彼らは歴史を継承したつもりだったが、積み上げて来ては居なかったという事だ。もちろん過去にやって来た曲目リストなどは残っているのだろうが、各団体にとってはサイドストーリーなので整理することもなかったのだろう。

大学生なのだから歴史の積み上げというのはできそうなものなのだが、できなくなって居たという可能性がある。


画像



與那覇氏が言う歴史の終焉と、フランシス・フクヤマ氏の歴史の終焉は言葉は同じだが意味が違う。ミクロで起きているいま現在が、マクロに影響を与えている可能性がある。近代化の社会は個人を必要としていたのだが、まさか歴史まで溶解するとは想定していなかった。歴史と接続した個人がいないと言う状況は考えられなかった。ポストモダン理論でもいつかは起きるといわれていた事が、急激にはじまっている。

ミクロでは簡単に起きている。

なお、歴史と接続出来ないポストモダンの中回帰説だと、盛り上がりとかそういったムーブメントに左右されるようになる。歴史という着地点のないムーブメントが繰り返されるうちに、ローマ人が帝政を認めたように、独裁制が起きるのだろう。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


忙しさもあと1/3

2018/06/17 03:09
画像



私の仕事は大体年の1/3だけが忙しい。4月から7月までだ。そのピークが今なのだが、それも残すところあと2週間になった。もうそろそろ物の意味も名前も消えたあの過集中の世界にゆきそうだ。

あれは気持ち悪いので、人にはお勧めしないが、カメラマンに変人が多い理由の一つだと思っている。例えば宝石を撮影するとする。そこには高級品だとかルビーだとかダイヤモンドだとか、歴史的経緯とか様々なものが折り重なってある。そのうちどれを取り上げるのかというのもカメラマンの腕になるのだが、コマーシャルだとひたすら美しく魅力的に光らなければいけない。そうすると光だけが意味を持つようになる。高貴な光り、神秘的な光、それは宝石の意味から出るのではなく、光のみから出る。宝石は意味を失い光のみを集中して考えるようになる。結果美しい宝石の写真が出来上がる。いちいちそうやっていたら仕事にならないので、ある程度はメソッドとして整理していると思う。だがチラシに入っている特売の宝石の写真と、一流ブランドの写真の差はキラキラと光る宝石の光への偏愛で産まれる。

そう言った天才たちと違って、私はしがないカメラマンなので、意味とか存在にこだわってゆかないといけない。



画像



ただ、震災以来何か意味が失われたように感じていた。だが世界的にそうなりつつあるので、それはリーマンショックまで遡るのかもしれない。

失われたのは希望と信頼なのかもしれない。だがそこにはもうひとつ何かが必要だ。ちょうど現代ビジネスに「歴史を忘れ去り、言葉を「凶器」として使う時代をどう生きるか」という與那覇潤氏と現代ビジネスの編集者の対談があった。実証歴史学者の立場として、ストーリー性の歴史というのに疑問はあったが、さらに断片化されたキャラ需要の歴史人物などの歴史という意味が存在しない受容というのは何か、そこには歴史の終演があると考えている。ポストモダン理論から人の生理的な現象まで踏み込んだ話で、示唆に富んでいるのだが、簡単に説明できない。

わたしの考えでは、歴史に断絶がある。それがなぜ起きたのかと言えば長過ぎるのだ。膨大なのだ。次が、現代社会には歴史のとっかかりがほとんどないのだ。もちろん多様な社会であるから基本は必要だが、核家族化などの都市化は、社会の歴史を必要としないからだ。

土から切り離された植木鉢の歴史の上で生きることは出来るのだろうか。

また来たよ。カズオ・イシグロの「私を離さないで」だよ。クローンには歴史がないからね。だから人でないと見なされて、臓器移植に使われるのかな。

実証歴史学というのは、歴史を過去の文献などから多方面に渡って検証して確らしさを求めてゆく作業だ。その中で、歴史の通奏低音を探してゆく。それが民族の根元であり、その流れを読むことが最終目標なのかもしれない。


画像



多分なのだが、昨年で日本の何かが変わった。確かに歴史が消えたのかもしれない。それは右派や左派の言動がひどすぎてみんな逃げて言ったという所もある。北朝鮮問題も華麗にスルーされている。

これを新しい歴史の誕生といえるかもしれない。まさしく「動物化するポストモダン」になったとすれば、歴史と接続されない民族主義や宗教原理主義まで細分化されてゆくのだろう。

今の正当性が疑われている。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


どうしようもなく

2018/06/16 03:20
画像



時間を作って泳ぎに行くが、全く遅くなった。水泳はトップレベルではパワーのスポーツだが、ローレベルだと技術のスポーツでもある。特に子供の時に鍛えたわけではないので、ものすごく落ちている。ピアニストが練習を3日サボったとかそう言ったレベルではない。

仕事のことが頭いっぱいで、切り替えも難しかったのもある。不完全燃焼になってしまった。残念なことだ。


画像



特定支援教育というのがある。つまり障害児に対する教育方だ。その現場での重要項目を読んでいたら、全くビジネス書にあるものと同じと気がついた。

子供の発達に応じで教材と対応を準備する。だが実際の変化に対して幅広い対応を予測して準備することが必要、というのは、顧客の状況に応じて、迅速な提案と対応出来るように、常に心がけていなければならない、と同じだ。

クラスには複数の教員で対応しているが、横の連携、そして上部との連携が重要になる。情報と教育理念の共有が最も重要である。

これなんか、全社的な情報の共有とにより、各部署の連携を円滑化して、迅速な対応と対顧客満足度を上げる。そこには会社理念の共有が必要であり、最も重要な問題である。社員間のコミュニケーションの円滑化を組織として用意する必要があると書きかえられる。

ビジネス書もカッコいいことや事例を出したがるけど、その基本は感情がむき出しになりやすい特定支援者へのアプローチとと同じで、まさしく社会そのものなのだ。



画像



今日は気持ち悪い言葉を聞いた。「自己教育能力」だ。もう一つ「自己学習能力」もある。ともにself-educationの翻訳なのだが、これを鍛えるという意味で能力という言葉がついたことが気持ち悪い。

もう少し大雑把にself-managementで十分なのだが、自己管理と翻訳されるのと、しつけの意味があるのでこのself-educationに教育的にはなるのだろう。

だってしつけしてはいけない教育者にとって、self-educationのほうが使いやすいからね。

これを大人向けに翻訳すると「自己啓発能力」になる。この気持ち悪さは、誰もがわかって居ると思う。

社会が変わろうとしないのに、一方的にこう言った定義と「能力」という言葉で、測定されるのだろうか。self-educationもself-management英語の意味は間違っていない。ただ能力となると話は違う。

それは目標化できない時点で、使ってはいけない言葉なのだ。

self-learningが日本語訳されない事を祈ろう。あ、自己啓発かな?

「自己教育能力」というのは、逆に使われる可能性がある用語で、個性を社会に合わせる能力にもとらえられる。日本語ではそう言ったニュアンスになる。それに気がつかない教育者は、よっぽど疲れているのだろう。

変なんだ。特定支援では障害があるからマネージメントが重要視されるのに、健常人だといきなりホワッとして、マネージメント不能な言葉ばかりになる。


なお日本では、社会がきついのでself-managemenですら厳しい。self-educationというのは社会適合能力のことになるというのが私の考えです。self-learningは勝手にやってくれということが一般認識だと思います。

あいつらに従順だから、self-education能力が高いという判断になるのだろうな。


画像



トランプさんは、ノーベル平和賞を取れなくて残念なことになるのだろうな。ヨーロッパの意識では全く真逆だからな。北朝鮮ごときでは。イランとの協定離脱と、イスラエル問題と、貿易問題とで世界を2分化した。この問題は大き過ぎる。

ただ佐藤栄作氏が受賞しているし、可能性はある。でも彼は世界には無害だったから。

もうひとつの可能性は、ノルウエーのアカデミーが審査員の問題で文学賞の受賞ができなくなったのと同様に、平和賞も一旦休止するというものだ。

歴史的会談なのかもしれないが、あれはアメリカが受ければ幾らでもいつどこでも出来た話だった。逆に受けなかった歴史のほうが本当に重要なのだ。

そうか、トランプさんはこの極東とカリブ海と同じに考えているのだな。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


寒い

2018/06/13 01:16
画像



台風が通過して北風が吹き込んだ。霧雨が時折ぱらつく、とても寒い1日だった。

最近シューベルトの交響曲1番と2番にハマっている。頭の中でこの曲が鳴り響いているので、この寒さもなんとかしのげた。それまでにもよく言えば天真爛漫な曲なのだが、かといってモーツアルトの交響曲1番に比べれば、大人っぽい、中二病的な作品だ。中二病は言い過ぎか、ある意味優等生な曲なのだが、あふれんばかりの想像力でてんこ盛りの作品なのだ。それでいて練習しやすいような区切りというか、展開部が一つ一つパッケージングされたり、変なところに気をまわしている。

そう、この曲はロックですよ。経験の足りない若者だから、やってしまった感の強い曲。そのリズムの激しさといい、リフみたいな音の構成といい、クラシックじゃないよなぁというのが感想。ほんと筆の速さがある意味幸いした曲だろう。

もしシューベルトが現代にいたら、ロックでそこそこ売れてコアなファンがついて、ポップスに楽曲提供したりしてそちらが稼ぎになって、大物プロデューサーになってアイドルグループとかで売るんだろうな。

ほんと当時でも時代に少し早かっただけの作曲家だったんだなぁ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


台風が来て梅雨になる

2018/06/12 01:12
画像



日曜はバスケットの試合を撮影して1日が過ぎた。


画像



本当は適当に切り上げて泳ぎにゆくつもりだったのだが、つい楽しくなってしまった。写真は人をとったほうが面白いのだが、その中でスポーツは動きも表情もあって、その瞬間を取れるかどうかというせめぎ合いもあって、そしてスポーツ観戦であり予測したり華麗な技に見惚れたり、楽しいことがいっぱいだ。

で、帰ってきてから上がった写真を見て、自分の腕のなさにがっかりするのだ。

僕はスポーツ専門カメラマンに比べれば下手で、バスケットや野球のように種目別専門家に比べれば圧倒的に下手だけど、コマーシャルカメラマンよりは圧倒的にうまいよ。

ただお客さんが求めるのは、その専門家が撮影したような写真だから、自分でも情けなく感じるのだなぁ。


画像



台風の接近で午後からかなり雨が強くなった。この中中津川に撮影に出かけなければいけなくて、大変だった。


画像



ずいぶん早い台風接近で、今日梅雨入りしたようだ。ずいぶん早い梅雨入りだ。平年に比べれば3日早いだけなのだが、昨年が歴代2位の遅さだったので余計に早く感じる。

梅雨入り宣言してから、移行期があって実は晴れの日が多いのだが、今年はいきなり雨と曇りの予報がつづく。その意味でとても早い。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


ようやく暑さが抜ける

2018/06/10 01:27
画像



今週はえらく暑かった。この数年こんな天気なので慣れそうなものだが、全く慣れない。

そしてなのだが明日から今度は最高気温が25度以下が続く予報だ。おまけに台風5号が近づいて、梅雨前線に乗ってきそうだ。大雨の心配もある。

異常気象しかないので、これが平年と言えるのかもしれないが、6月の半ばに台風が本土に接近というのはかなり珍しいぞ。



画像



夜になるとスイカズラの甘い香りが漂ってくる。初夏は新緑の匂いだけではない。野ばらも季節だ。


画像



今日は殺人事件とかいっぱいいっぱいだったなぁ。急に暑くなると、変になるよ。

まあ日本史の上ではこの150年が例外的におかしいから、そのツケが回ってきたところもあるなぁ。
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


今日もまた

2018/06/09 02:44
画像



今日は曇りで助かった。ただ27.5度とはいえ、蒸し暑かった。だが不思議な事に湿度は50%程度なのだ。これが盛岡の変なところで、湿度は普通なのだが、なぜか蒸し暑く感じる日が多い。風の関係だろうか。


画像



自由ということを考えていたら、それは相対的なものだと言うのに気がつく。絶対的自由というのは、そうそうない。秦の始皇帝ですら法の支配から自由ではないし、そもそも国家を背負う独裁者には、本質的な自由はない。まあその下々にはもっと自由がない。

仏教というのはそういった意味で自由の宗教でもある。日本で仏教に帰依し得度するというのは、世間のしがらみから抜け出す手段でもあった。武家であったが和歌の道に専念したくて、家族をしてて僧侶になった西行のようなものもある。一休禅師のような例もあれば、種田山頭火のような例もある。

そしてなのだが平安末期から、神仏習合が進んだ段階で天皇が得度して僧侶になり、上皇となり政治とは関係なくなるという形式が出てきた。どうゆうことかと言えば、1)天皇としても権力に限界を感じる、2)得度して引退する、3)仏教側では地位が高すぎるので、それなりの権威の称号を与える。、4)仏教の権威と自由な立場からの発言で、政治を左右する。この構図は清の時代の西太后にもあった。

ここである自由とは現世に塗れないということだ。現世とは関係ない立場で無いと、自由にはなれない。そこには現世を捨てた僧侶と言う立場が重要だった。貧しくとも現世から離れることが自由という事になる。

アジア的にお金持ちが尊敬されるのは、実はここだろう。だがそれ以上を求める人にとっては、さらなる清浄の地にいなければいけない。仏教はそれを担保した。なおこの仏教を使ったスキームは日本だけでしか成立しないだろう。

普通の宗教では宗教家と在家は完全に分離されている。一神教の原理主義では、一致していなければいけないとなっているが、彼等は宗教の権威と政治が一致した時の問題を理解していない。

ささやかな日本史ですら問題であった。

ただ、これが絶対的自由なのだ。社会を完璧に無視するか、社会を完璧に支配するか。しかもしがらみの外に居る、これが重要だ。

そう、一神教の世界の自由は神の元の自由だ。神に愛されて居るからこその自由がある。異教徒を殺す自由もあるのだが、それは一般に過激思想なのだが、神の元に制限されるのだ。

絶対的自由、それはこんまりの整理法もあるし断捨離の生活術とかで、まだ生きている。

絶対的自由を追い求めている。

だがそれを成し遂げる人は少ない。なので中途半端な概念だけがブームになる。


画像



絶対的自由が絶対叶わないとなれば、息苦しくなるな。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


続くなぁ

2018/06/06 01:48
画像



親が子供に期待することには、手間がかからないということかもしれない。お行儀がよく、ハキハキして、それでいて子供らしい。。

でも現実はそうではない。散々な目にあってもこの子はどうなるのだろうかとワクワクしたりハラハラして育てることになる。で、そこにあるのは絶対的な価値、自分の子供だ、そういった意識がある。

「世界で一つだけの花」という歌があったが、まさしくそれだ。

親は自分の子供をよく見ているから、その個性がわかる。それを誰かに伸ばしてもらいたいと思っている。だが親本人には時間もないし、確信も持てない。実はうちの子は勉強ができないとぼやく親は、確信を持てないから世間の評価を気にしているだけだ。実際はそれでも「世界で一つだけの花」であり、可能性を固く信じて疑わない。

なので可能性が見えたジャンルに親が肩入れするのは当然だ。スポーツでレギュラーになったとかそうなると俄然応援する。

特にこの15年でこの傾向はかなり強くなった。


画像



ただ、誰も公教育には期待していない。なので経済的に余裕のある人は中高一貫の私学とか、慶応のような幼稚園からとかそういった学校を選ぶ。そのほうが個性を伸ばすチャンスになるからだ。

習い事もそうだ。有力な指導者のいるスクールや先生の情報は聞き逃さないようにする。受験の勉強は塾が当たり前になる。つまり私学だろうが、文科省の指導要領に縛られる教育には期待しないのだ。

それでは公教育しか受けられないとなると相当なジレンマが起きるのだ。

モンスターペアレンツの存在はこれで説明がつくと思う。ただ普通の人は学校の先生がどういった仕事をしているか知っているし、問題が起きた場合は家庭内に戻して考えるべきだと思っているので、表面化しないだけだと思う。

個性を伸ばす教育というのは、ゆとり学習の期間でかなり伸びたという実感はある。考えさせる学習とかも効果はあった。だが期待されるほどではなかった。

さて、教育とは人生一度きりの出来事だ。確かに現代では生涯学び続けないと時代のスピードについてゆけない。だが高校生までの教育には2度と戻ることはできない。それは自分でやってくれというのがある。

つまり時代と条件で左右されてしまうのだ。これを不条理と考えるかどうか。


自分で思うのだが、本当に単純化して考えているのだが、それでも枝葉が出てしまう。それもまた単純化して行くのだが、なんでこんなに枝葉ばかりなのかというのが、教育なのかもしれない。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


まだ6月なんだが

2018/06/05 02:15
画像



今日は最高気温30.5度と大変暑くなった。昨日の29.8度も大変だったが、その少しの差がとても大きい。

ほんと今日の昼は、光が強くて、感度100でシャッタースピード1/250秒でF11だった。この値だが、真夏と変わらない。ストロボを使う撮影では苦労した。


画像



池にはカルガモの雛が3羽いた。親はどこに行ったのだろうか。このままだとカラスや猫にやられてしまうだろう。


画像



響の熱田氏と、最近の文科省の大学改革について色々話をした。彼はエリート教育としての大学は減らすべきで、ドイツのような職業に応じた高度な教育を増やすべきではないのかと話していた。実は、大卒者に多い考えだ。現実に仕事で使うことがほとんどないのだ。なので疑問に思うのだ。

こう行った考えは、高校の授業にも言われる。社会に出て役に立った試しがない。そういうのだ。

それではなぜ親は子供の成績を、気にするのだろうか。経済的な動機が大きい。いい教育を受けさせれば、就職や給与で有利になり、子供の未来は安泰になる。そう言ったことだ。だが親自身は学校の教育が役に立ったことはないと考えている。

これは矛盾ではないのだろうか。

ゆとり教育の中で、生活科と言うのがあった。本当は総合学習だったのだが、低学年だったのでお遊びになってしまった。そこでは生きる力をつけさせると言う、世間からの要望があってできた科目だったが、うまく機能できなかった。ただゆとり教育の中には、自発的に考えさせると言う目標もあり、それは大なり小なり結実していると思う。

脱線したが、現在の教育に生きる力を求めるのであったら、過去のいじめ蔓延で暴力教師の方がよろしいのではないのだろうか。その粗悪な環境では落伍者もいっぱい出るが、確かに生きる力のある奴が出るだろう。

アジアで生きる力とは人間関係を構築する能力だ。日本も例外ではない。なぜ学校教育が役に立たないのかと言えば、人間関係構築は教師に委ねられているからだ。その支配下での人間関係構築は横一列であって、現実社会の複雑さとは対応していない。

それを承知でなぜ親は子供の学業成績で悩むのだろうか。それは世間体だろうか。

実はもっと簡単だと思う。自分の分身が出来の悪いのが許せないだけだと思う。若干粗雑な考えになってしまった。この問題は本当に深いと思う。経済だけではない。



画像



今日は大学生から北水の池のミシシッピアカミミガメについて質問された。正しい人に聞いたと思う。

この捨てられた動物というのは、法的に問題になりやすい。所有者不明だからだ。ある意味不法投棄なのだが、捨てた人はある意味善意でもある。自分は飼えなくなったが生き延びやすい場所に帰してあげたよ、というものだ。だがその池の所有者は、その存在を知らない。なので飼育を引き継いだと認識していない。なので所有権が不明になる。それを捕獲した場合は、元の所有者の権利を侵害したことになる。だが状況的に捨てたのは間違いなく、所有権を放棄したと考えられるが、善意による放流なので放置することは許されない。

だがミシシッピアカミミガメは近いうちに特定外来生物に指定され、飼育認可を受けなければ飼ってはいけない動物になる。その法的な問題、つまりめんどくさい、死亡した時にその証明と飼育許可の取り下げを行なう必要がある。池の所有者が、将来的にそう言った問題に直面する可能性がある。

このめんどくささというのを考えると、今の内に駆除するほうが正しいが、生命倫理の問題がある。池の景観にも役に立っていると思われる。

このすべてを解決する方法は、曖昧にすることだ。

さてこの曖昧とはどういったことか。ミシシッピアカミミガメが曖昧な存在だったからだ!
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


カルガモだね

2018/06/03 23:44
画像



今日は結構忙しかった。まあ泳ぐ時間を作るために忙しかっただけだったが。

そこにカルガモの雛だよ。今日は何があっても全てが素晴らしい。



画像



総合プールは何かの合宿でお休みなのでゆぴあすに行った。今日は時間もないので50メーターを20本、30秒のインターバルで泳ぐことにする。ただスピードが出なくて苦労した。

で、白人男性と娘だろうか、隣のレーンにきて泳ぎはじめたようだ。どうも水泳を教えているようだ。で、プールでおなじみの可動式の大きな時計があるのだが、それを男性がプールと平行に動かした。

どうもタイムを測ろうという事のようだ。娘さんがプール中央にいるからそうなったようだ。で、一回やったからいいだろうと、時計を元に戻したらその白人またプールに平行にもどす。

流石に注意しようとしたら、ガン無視。それでも注意したらこぶしを突き出して、そっから英語なのだが、お前が出てゆけ帰れ、と5回叫ばれた上に、どうも娘のためにやっているんだ邪魔するなと言う事を言ったようだ。

ぽかーんとしてしまった。

で、奥さんは日本人のようなので声を掛けたけどガン無視。これこそヤンキー。

自分の世界に閉じこもっている。


画像



まあこの人は、家族との触れ合いに集中したかったのだろう。だがそれはちょっと違う。その前に、彼等は日本人の中にいない。確かに日本語はめんどくさいし日本人はめんどくさい。関わり合わないほうがいいが、日本に住んでいるから、方法論としてはガン無視になる。多分そう言った方なのだろう。

だから暴言になるのだろうな。

とは言っても私は迷惑だったけどね。


画像



彼の家族の時間と、私のトレーニングの時間と、交差したわけだがそれが時計にあるのが、何とも言えませんなぁ。

私の時間を奪うな!そう言ったメタファーでもある訳だな。


画像



もしかすると、なぜこう言ったことになったのかといえば、実は彼はあんまり泳げないのだ。で、隣とその隣がそれなりに泳いでいる訳だ。で、娘に教えていて「お父さん本当に泳げるの?」と言う疑問があったのかもしれない。なのでお父さんは本当は速いと言う事を証明しようとしたのかもしれない。多分そうだろう。娘からバタフライを要求されて、曖昧にしていた。


画像



そこで推論できるのは、水泳は白人種のスポーツと言われていた時代がある。だがプールを維持する経済力のある国が強くなるのは当たり前だ。経済格差が競技人口が関係する競技だ。だがそこを無視すると、黒人は水泳に向いていない(差別問題が深すぎた)とかそもそも水が不足している地域からは選手は出にくいとか、そう言ったことを無視した結果なのだ。ただいまのところ水泳は白人が強いのは間違いが無い。

で、そう言った意識がある。彼にはある、と思う。

子供に教える気満々なのに、隣と隣のレーンでは彼より速く長く泳ぐ黄色い肌の老婆が同じスピードだったのだ。

実は自分が一番遅いのだ。

と言う事で、閉じこもるのはいいのだが、その中に差別意識を感じたのは私だけでは無い。

なお彼のために言っておくが、泳げない人ほどプールで子供に教えたがるのだ。日本人だけだと思っていた。日本人は海洋民族なので泳げるのが当然と言うのが無いわけでは無い。だがあれは習って覚えたものではない。必要があったから覚えたものだ。

なので型で教えたがる。競泳経験者は、子供に直接水泳を教えない。理由は間違っている可能性があるからだ。なのでスクールにいれる。これが正しい。お父さんは子供と遊ぶことに集中するべきだ。教えるのは後だ。

このケースなのだが、実はあのお父さんのプライドのために、できることはいっぱいあったのだが、コミュニケーションをとる気がなかったというのは残念だ。

男の感覚というのがどう表現されるのかはあるが、なぜか男は教えたがる。そしてプライドもある。これは普遍的だと確認した。

できないことを教えたがるのが、男だ。

という事でかわいいカルガモの写真に、嫌な話を載せてみました。

記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


最近

2018/06/03 03:06
画像



仕事が忙しいのと、教育って何?と考えているせいか、腹の調子が悪い。潰瘍かと疑う時もあったが、また調子が戻ってきた。

まあ本当に教育という問題は手に負えないものを感じる。とにかく私の知る限りの歴史で考えてみても、まあ多岐にわたっているものだ。例えば子供と大人の境目というものはどこにあるかなのだ。

まずここははっきりしている。支配階級を覗いて2回ある。はじめは体が大きくなって仕事ができるというようになってからだ。この境目は子供によって違う。次が結婚して子供ができてからだ。この2番目が曲者なのだが、多分この二つは世界共通なのではないのか。

それでは支配階級となれば、教育というのがはっきり出てくる。子供の時から音楽や絵画を学ばせ、古典を使った国語教育や数学の基本を習い、宗教も学ぶし貴族なら武芸はあるだろうし、そもそもその階級に応じたマナーをしつけられる。17世紀になると学校というのが出来ているし大学もある。トップエリートは万能人でなければいけない。文学にも詳しく哲学も学び、音楽も弾けて医学を学んだこともある、そう言った人材が出ている。商人でもユダヤ人になると、確実な一芸を身につけさせるために、徹底して教育を身につけさせた。その中で音楽が多いのはいざとなったら裸一門で食べる技術だったというのはある。

まずは日本の9割の人口だった農民で考えると、教育は家庭で行われるものでその家の程度で決まる。だが中央集権国家だったころから、地方にも知識人がいるようになるし、支配者も知識人だ。彼らと交渉するための能力も徐々に蓄積されて言っただろう。そこには僧侶などの階層もいただろう。徐々に徐々に広がってゆく。

いい例では無いが、豊臣秀吉は悪筆で有名だ。彼がいつ文字を学んだかといえば、多分子どもの頃だったろう。だが基本しか学んでいないから、大人になって必要に迫られて書くことになっても上手くならない。

代筆が許されなかったのだろうか。手紙には代筆は許されなかったのだろう。

時代が下がって江戸になるのだが、この頃は木版での出版も盛んになる。で、読める人がいないと出版というのは出来ないはずだが、盛んになったということは読める人が増えた結果だった。例えば二宮尊徳は苦学して当時の農業経済論をまとめた。この時代は農業の振興を藩が競い合う時代で、農民も自助努力で当時の農学書などを読んで研鑽していた。庄屋がやっていただけとも言えるが、それでは一揆の連判状はどう考えればいいのだろうか。あの丸く囲まれた名前の並びは、同じ人が描いたのだろうか。

岩手では三閉伊一揆のという、逃散を特徴とした一揆があったが、岩泉から伊達藩まで1万2千人が逃散したのだ。このスキームを考えよと誰かに宿題を出したい気になる程、食料の調達や移動中の行動規範の徹底や、遠野南部藩に無視させるように何らかの工作があったとも割れる事件だった。つまり彼等は兵学を知っていたのだろう。

町民の寺子屋なりはわかっているが、農民となるとよく知らないのだが、寺か誰かが読み書き算盤程度はやっていたのだろう。

実はここで今と同じ問題が起きる。当時でもこの程度はできないとまずいという教育があったのだ。それは時代が下がるにつれて、より高度になって行く。家庭教育から外れて行くのが江戸時代となりそうだ。


画像



次に問題になるのは、いわゆる性善説と性悪説なのだが、儒教でも2大テーマだったと思う。これを今に置き換えれば、社会が悪いのか子供が悪いのかという話だと思う。

で、ここで重要なのは子供には境目がないということなのだ。決めつける事がそもそも問題だった。

それは大人も同じで、生まれてからの悪人はいないし生まれつきの善人もいない。そこには人生という問題がある。家庭環境やその周囲の社会やそう言ったファクターが大きい。性善説も性悪説も結果であって、本質ではない。

画像



ここから先がえらく難しくなる。人を育てるための教育は人権である。そしてなぜ効果とかそれがGNPにどう反映するかとか言わずに書いているのは、それは派生した結果だからだ。本質が人権だとしても、なぜ社会と学校が分離したのかは、考えなければいけない。だがこれは本当に難しい。

そしてなぜ学校は思い出の場所にならなければいけないのか。

ここまで考えられればいいなぁ。お釈迦様の掌ならいいけど、人間の掌だったら嫌だな。今そう言った嫌悪があって書いている。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


今日もとりとめなく

2018/06/02 02:36
画像




今日ニュースでマイク・ポンペオ米国務長官と北朝鮮の金英哲朝鮮労働党副委員長が握手している写真を見た。ポンペオ氏の巨漢ぶりもすごいし、鍛え抜かれた体を感じさせる金英哲氏も凄みがある。

何が凄いかといえば、2人とも元なのだが、CIA長官と北朝鮮諜報部のトップとの握手なのだ。共に暗殺やら拷問やらそれ以上に闇の工作に通じた2人だ。世界最強のCIAと、権力闘争の激しい北朝鮮で三代にわたって生き残った人物だ。

本来なら希望の写真なのだろうが、薄ら寒さを感じる。恐ろしい写真でもある。


画像



教育とはと考えてゆく中で、違うことも考えている。規範の喪失だ。礼儀とか道徳というものをまとめて規範と書いているが、それはかつて上流社会や王族の独占物だった。それが市民階級の勃興とともに庶民に降りてきていたものだった。多分これは世界的にも同じだろう。宗教で少し違うところもある。キリスト教の場合は、キリストは神の子であり、その出現以降預言者は存在しない。だが聖別された人というのは存在していた。しかも生きているうちに聖別されたというのは、それこそ貴族であり王家である。彼らの豪奢は許せなくても趣味や礼儀は規範となった。イスラムの場合カリフ制だった時には、王と預言者の正統的継承者という一元論だったので、王のいうことが規範だった。なのでイスラム圏の文化が花開いたのは、その王の趣味があったとも言える。カリフ制の廃止以降、預言者の規範に習うべしとなって、現在の混乱が起きている。

ポストモダンの議論では、相対化が進んでそう言った規範が薄れてゆくと説明できた。だがもう一つ考えなければいけないのは、その過去の規範を守れなくなりつつあるということだ。一つは貧困化と先の見えなさだ。ポストモダン議論のスパンは1800年から1990年までだったかもしれない。そこには世界経済の発展があったが、いま現在は先進国を中心に成長率は高いとはいえない。

規範とは未来があるから守られるのであって、守れなくなった段階で別なものに変わって行く。

新しい規範がないわけではない。例えば生活を整理整頓してかつての禅坊主の生活を快適にしたようなのは、過去との接続があるだろう。だがそれは自分の欲望との闘いであり、そう成功できるものではない。そしてそう言った生活が意外と金がかかるというのが分かっている。別な規範にSNSがある。特にインスタグラムがそうだが、その中で特にキラキラした生活の人にはどう考えて無理だ。ファッション雑誌から全てが広告タイアップに変わり、ファッションの指標にもならなくなっている。

ものすごい無力感の漂う世界がある。お金があれば欲望の赴くままに買い物はできるだろう。だが、その先があるのか。人生が長くなりすぎた。若い人も先の設定が見えなければ無謀な出費はしなくなる。

そしてなのだが、セレブに規範を求められなくなっている。その生活や醜聞もそうだが、かつての規範と齟齬がある。我々の延長であって、そこには貧富の差しか感じられないのだ。そして王族や貴族だが、確かに彼らは規範を守っている。しかし、その精密さに誰もが気が付いている。我々のようながさつなものには到底無理なのだ。

我々は賢くなりすぎたのかもしれない。だが賢さの割には、貧しいのは何故なのだろう。

無力さに囚われているからなのだろう。


画像



今日初めてこのブログのアクセス状況を確認したのだが、素晴らしいくらいに誰もこない。実にこれは嬉しい。所詮私のゴミ箱のような日記であり、ひどい習慣だと思う。

過去のブログの1週間分が、移籍してからの分全部のPVより多いんだからね。

安心して書き続けよう。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


天気は下り坂

2018/06/01 03:00
画像



今日から天気は下り坂になる。昼までは比較的晴れ間も出たりしたが、午後はたまに雨がぱらついたりしたが、夕方4時半から大雨になった。


画像



小樽商科大と北見工大と帯広畜産大の経営統合に続いて、名古屋大学と岐阜大学の経営統合が始まっているという。この分では東北大学と宮城教育大学の経営統合の発表も近いだろう。

この経営統合だが、別な法人を上位において経理などの事務をそこに統合して経費圧縮を狙うのと、規模拡大で補助金を多く取るのと、規制緩和を狙えるのがある。

だが距離が遠過ぎる場合、ある程度の事務を各大学におかざるを得ない。その上で、各大学の自主判断の、特に緊急時の対応のための権限委譲がどの程度になるかが重要だ。官僚的な中央集権システムにしてしまうと、上部組織も下部組織も肥大化しやすい。これを起こさずにどうやれるのかと言えば、実はできないだろうと思う。

効果が期待できるのは外国人留学生受け入れ制度や、留学制度や奨学金制度などのサービス部門の事務の整理と多様化だろう。もっとも期待できないのは統一入試制度なのだ。これこそ経費削減しやすいものなのだが、実際は各大学の求める学生像がある。上位法人を作っても各大学の自主独立を歌うのなら、この経費の削減はできない。センター試験一発とかにすれば話は別だが。

北海道3大学は単科大学なのでわりと考えやすい。だが教員の共通化には距離があり過ぎるのと、各大学のキャラクターが違いすぎる。この点で事務の統合の効果は薄くなる。岐阜大学と名古屋大学は、指定国立大制度の規制緩和の中に乗った制度なのだが、互いに総合大学なのだ。重複する部門を整理しないといけないのだが、それを前提としていない制度なので効果は薄い。

そしてなのだが、教員研修制度を立ち上げてある。この研修の受け皿は今の所各県の教育系大学になっている。その中でも歴史と実績のある国立系が研修を受けることが多いと思うが、つまり各県一つは教育学部がなければいけないのだ。

大学の最大のネックは人件費だ。その改善をするためには教員の数を減らすことが最も有効なのだ。それが私学の方針だ。これは国立大学ではやりにくい。それこそ労働法や大学設置法に触れてしまうからだ。

もっとも懸念しているのは、こうやって大学の再編とか統合をすればするほど、人が増えるのだ。結果意味のない再編というのを散々繰り返してきた。短期目標のみで経営改善や新規経営課題解決をするたびに増えてゆくのだ。この問題を解決するのは長期視点でしかない。だが文科省がそれを失った状態なのは確かなのだ。

さて帯広畜産大と岐阜大の共通点を述べよ。

獣医科が共同獣医かという名前で統合されて別な組織になっているのだ。そう、公衆衛生とか産業動物系で獣医資格を持っている人の需要は増えているのに、獣医の数は足りていると文科省が言ってきていた経緯で、各大学の獣医科が統合されていたのだ。

これは家計学院の話の前なので、いまの話とは関係無いのだが、真面目にこんな話があってたまるかというのが本音だ。ただ私学が長期的な視点でもしもこれを30年前に考えていたなら、確かにこれは言えるのだ。機に敏いとしか言いようがない。

基本的に自由な裁量権のある、お金たっぷりの組織は腐敗する。たとえば日大のように。起きないようにするためには超人が必要なのだが、果たしてそう言った人は文科省が扱いにくくて、使わないだろうな。


画像



日本の教育ということで、言語だけで考えて行くと、まず萬葉集がある。そこには底辺と思われる人たちから貴族までの和歌がある。だれかが収集したということだが、和歌を口伝で残すのはかなり難しい。書かれていたと考えた方がいい。奈良時代に文字が普及していたということになる。防人も和歌を読み、もしかすると豪農かもしれない農民も和歌をよむ。その文化も驚きだ。

ただ現実的にそれは支配階級中心と思われるのだが、一番大きかったのは中央集権国家を目指したと言うこと、各地に寺を作って仏教を広めたことだろう。中央から派遣される地頭なのどの官僚の存在も大きい。文化とはこう言った交流で昼がるものだ。

中央集権国家では命令をどうやって伝えるのかが問題になる。それは言葉だと伝言ゲームになって確実のまちがって伝わる。文字でなければいけない。手紙で命令が下る。と言うことは支配地域には文字・言語が共通化される必要がある。これを読める人がいないと統治はできないわけだ。

この役割を中央から派遣された地頭が担っていても限界はある。地元に共通言語をわかる人が必要になる。多分これが教育というものなのかもしれない。その上数量とかの計測もある。そこには算数がある。

蝦夷とか熊襲と見下していた中央が行うのは、つまりこう言ったことなのだ。仏教に帰依させて恭順させるという考えでもあるが、僧侶という知識人を派遣してついでに言語や知識を伝授して、統治しやすくするということなのだろう。多分教育と言う考えは奈良時代なのだろうか。


画像



今ある教育制度改革は、もしかするとアメリカ型でも復古主義でもなく、もしかすると世界で最新鋭かも知れない。

学問は放棄されたのだ。つまり古代に戻ったのだ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


変化だな

2018/05/31 03:03
画像



火曜日は泳ぎに行った。太田橋のあたりはアカシアの花が満開で、香りに包まれていた。

仕事を切り上げて行ったのでいつもの時間帯ではない。いつもの時間帯だと早い人は居ないのだが、この時間帯からはさすがにいるだろうと思って居たら、いっぱい居た。ただ年齢が私より少し若いというだけで、本当に若い高校生や子供は練習でいっぱいいるのだが、若い人は居ない。

かねてから水泳離れが進んでいるとは思って居た。ニューズウイークの舞田敏彦氏の「おカネの若者離れで、どんどん狭くなる趣味の世界」で、かなり説明ができた。博報堂生活総研の生活定点観測から、1992年と2016年の比較では、20代が趣味で水泳するのは-10ポイント減ったのだ。だが舞田氏がさらに総務省の人口推計年報かとこの博報堂の20〜60代の趣味人口を推計したのでも、水泳趣味人口の推計倍率は0.47と私の実感している通りになって居た。

なおこのデーターで20代はの趣味は、パソコンと映画鑑賞とカメラビデオ撮影とジョギング・ランニングが増加傾向にあり、パソコンが20.6ポイント増でぶっちぎりだった。多分この辺りはSNS関連が多いのでは無いのかと思われる。基本的にスマホとパソコンの生活になっているのだろう。その上で、金がかからないものが上位にきている。

そしてなのだが、20〜60代との比較では、観劇の人口は減って居ても若い人は好んでいる。楽器演奏は中高年になってから多分やり直す人が増えている。そう行ったところかな。あとは全体で低い絵画・陶芸・工芸が20代で高めなのは、こりゃフィギュアとか漫画とかだろう。

いずれ20代には金がない。それは今も昔も変わらないのだが、20〜60代のデーターと合わせるとみんな金がないという状況にもなる。

だがな、水泳というのはジョギングの次に金のかからないスポーツなのだが。20〜60代全てで敬遠されているという実態がでている。しかもだ、この間にスイミングスクールが増えて泳げる人が増えたのにも関わらず減っているというのが、本質的に問題なのだ。


画像



朝方にはげしい雨が降ったようだ。



画像




教育についてはまだ考えている。それは人権だというところで、西洋の人権は一神教の支配下にある。それではアジア的な人権というのはあるのかといえば、思いっきり広い範囲になる。

ただここだけは明快に言える。子供を急激に人にしなければいけない。そのためには厳しい躾が必要だということだ。家庭でのしつけというのはそう行ったことで、暴力も認められて居た。そして学校制度が出来ても、出来たからなお早く大人にしなければいけない。なので体罰が認められて居た。

これは近代で東西を問わずに行われて居たことだ。体罰を受けなくて済むように賢い子が、手間のかからないいい子となる。子供の大人化が優先されて居た。

だが子供が発見された。それは近代だが、大人と違うというのを認めたときから、発達心理学やら総動員して子供が解明されていった。

それは教育制度の革新だったのだが、問題があった。子供を大人の延長線上で考えられるかどうかなのだ。


画像



ここには人権の大きな問題がある。それは差別問題とも関わっている。人と同じ形をして人と同じ言葉を話す、カラーやLGBTの問題だ。宗教もある。

ここがまだ定まって居ないのがアジアだ。そこには日本もある。なぜ刑事被疑者の人権が守られないのか?

ここには厄介な問題がある。社会に帰属していることの表明として、刑事被疑者の人権を破るのだ。これはインドネシアのLGBTへの弾圧と無関係ではない。

子供の発見は正しかった。ただし大人が受け止められたか如何かは人類の歴史の中で200年経っても最新鋭でもある。

つまりまだ人間が発見されて居ないのだ。

わかっているのだが、全然わかっていないのだ。



画像




今日、小樽商科大学と北見工大と帯広畜産大の合併のうわさを聞いた。校風の違うこの3つが経済的には距離がありすぎて、どうやって事務を縮小出来るのかという問題が残る話だ。

そしてなのだが帯広畜産大の獣医学科は、文科省の獣医の需要は少なくなっているということで、連合大学に入っている。つまり帯広畜産大と分離されている。

ただこも当時でも獣医師免許保持者は公衆衛生では足りなかったのだ。そして動物実験などの薬学関連でも足りなかったのだ。

家計学院問題は、本質的な問題なのだ。中長期的な視点のない政策を行なった結果、家計学院の認可が下りたのだ。

教育制度という根本になにがあるのかを考えていない。つまりアジアなのだよ。目先のことしか考えないそう言った人が日本なのだよ。トップエリートでもそうなんだな。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


通奏低音

2018/05/30 09:14
画像



満月の1日前だった。綺麗だったので撮影した。



画像



日大アメフト部の今後が楽しみだ。マイナースポーツが突然人気になるというのはある。それはドラマだったりアニメだったりするが、悪名もまた名。

選手が素晴らししい記者会見をしたりと、選手は悪くないというのを誰かが何かやっている節はあるが、日本恒例新人を集めるのは4月、ここまで悪名さえおぼえられなければ、逆に日本大学を徹底的にヒールにしたらアメフト人気が出る可能性がある。あとルールをわかる人が増えたら御の字だろう。


画像



なんで日大でこんなに叩かれるかといえば、70年安保闘争があったからだと思う。で、左とか右ではなく、当時の日大の運営状態が変だったからだ。定員の10倍の入学者、当然教室は足らないし、教師も足りない。

その状況は今考えてもおかしかった。もちろん文部省の大学設置基準が緩かったというのはあるけど、ひどすぎた。そこに巨額横領事件があって紛糾する。

ところが日大は体育会系の学生を使って、左翼潰しにかかったのだ。

これが火に油を注いだバリケード闘争になる。それが70年安保闘争につながって行くのだ。

私はこの年代ではないが、この当時の日大の悪名は晴れていない。だから騒ぎになるのだ。

あの学風がいいまでもあると確認した。




画像




世の中こうゆうところから変わってほしいものだ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


悩ましいなぁ

2018/05/29 02:47
画像



「教育は人権の一部」と言う話を人とした。それは正しいと言ってもらったが、まだ根本的なところにはたどり着いていない。人が人であるためには教育されなければいけない。子供は教育を受ける義務があり、親は教育を与える義務がある。これが国民国家になってから、社会と親が教育を与える義務があると変わった。そして子供はさらに高い教育を受ける権利がある。

社会の要請というのは大きい。それは親が所属していることもある。古代ローマではローマ市民には軍務が義務つけられていたから、これに必要な教育があった。そして戦いの前には演説があったので教養が無さすぎるとどんなに戦闘で強くても出世できない。そう言った社会だからこそ制度的なものは無いが、教育はあった。

ありがたいことにローマの成長期には、ギリシャの没落期だった。おかげで優秀なギリシャ人教師がいっぱいいた。教師には事欠かなかったわけだ。移民国家のアメリカにも似たところはある。

ただ中世を通じてそう言った社会がなくなっても、なぜフランス革命で教育制度ができたのかは、徴兵制のおかげだが、文化の厚みがあったからだと思う。

なぜフランス革命でも、王の集めた美術品は散逸しなかったのか。わかっていたからだ。もちろん王の財産は国民のものだというのはあった。だがどさくさ紛れで散逸してしまいそうなのが残ったのは、その価値が分かる指導者がいっぱいいたということだろう。まあ、美術品は換金しにくいしかさばるから残ったというのはある。

実はここにキリスト教という項目を入れると景色が変わる。ブルボン王朝は神から聖別された一族なのだ。本来は起こるはずのないパラダイムシフトが起きたのだ。聖別されようが同じキリスト教徒である。聖別されている人物が圧政を行うのは、おかしいのだ。イギリスが先に立憲君主制に移行したのも大きかった。

つまり社会基盤が中世からのパラダイムシフトが起きていたのだ。それはルネッサンスからであったが、一般人まで膾炙するまでの時間が必要だったということになる。

画像



日本では明治維新で、神仏分離で大量の美術品が焼き払われたり散逸した。寺は統治機構のの出先でもあったというのがある。そのためにひどい目にあったというのはある。寺を守った地域もあるだろうし、宝物を死守した住職もいただろう。明治政府の意向を無視した地域もあるだろう。だが、キリスト教のように強固な社会をつくっていれば、この時の仏教界は明治政府と戦ったのでは無いのだろうか。幕府に飼いならされてそう言った気概も無かったのかもしれないが、なぜ民衆が仏教を無用と考えたのだろうか。

そして欧米からこの宗教政策はおかしいと言われて、この騒ぎは治る。残った寺は存続して今日にある。

日本の社会基盤に宗教がないという実例ではないのだろうか。

神道もこの時に神の数を古事記なりに倣って整理整頓してしまった。ここに地方の本質的な宗教意義が失われて、伊勢神宮中心の形骸化した形になる。それは実際仕方がなかった。神仏混合の時代が長かったので、神道の古代の姿が復元し難かったからだ。だが宗教の本質から外れてしまった。

国家が先導した神道は、戦後意味を失う。普通の家庭には神棚は無い。せいぜい台所のレンジのところに火除けのお札を貼る程度だろうか。戦前の反動もあるのだが、レジャー化した。実際彼等もそれを進めた。お祓いと元朝参りだ。日常で神道を実践する人はかなり少ないだろう。



画像



宗教的基盤の薄い日本での「人権としての教育」というのは、人権という形が見えにくいのでわかりにくくなる。キリスト教だと神の元の平等という考えがある。そこには人というのはどう言った存在なのかというのがすでに規定されている。神に愛される人だ。それは信仰心だけではなく、人というのはどうゆうものかという哲学がある。これが基盤の考えがある。

人として神に愛される人を育てなければいけないのだ。だが時代はずれた。神の寵愛が、金銭で測られる時代は嘆かわしい。



画像




日本での宗教基盤は明治維新で破壊された。そしてその後も生活としての神道に収めようとした結果。敗戦で神道も形骸化した。教育の哲学というのも無くなってしまった。そこで日本が採用したのは啓蒙主義的な教育制度だ。

極めて教養主義なのだ。政治的にも宗教的にも中立であろうとする教育だ。その上、発達段階で秩序立った教育という形態を目指した。極めて合理的だったのだが、何の為に学ぶのかが全くわからなかったのだ。

そこには社会基盤が破壊された明治維新の後遺症なのかもしれない。


教育を自分になる知識と経験だけで考えて行くのだが、恐ろしく多方面に渡っていて、考え始めたら止まらなくなってしまった。歴史と対比で考えているのだが、この多様性には驚く。

人が人である為には、どうあるべきなのかだ。そしてそれは社会に逆照射されなければいけないことだ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


今日も

2018/05/28 02:47
画像



ローマ時代の教育制度は、多分家庭と私塾だ。だがもう一つ、ローマ市民には軍務があった。これは義務である。このために知識が必要になる。読み書きだけではない。宿営地を築くための工兵には当然土木技術が必要で、測量技術が必要だ。パターン化されているとはいえ、計算能力が必要になる。これがローマの土木技術の発展につながったともいわれている。そしてなのだがどんなに勇敢でも、演説がうまくないと誰もついてこない。そう弁論術が必要になるのだ。

そしてローマ市民は法を守らなければいけない。だがこの法、アメリカ憲法と同じで条文が全部残る。ある法が古くなったから新規の法に替えて古い法を廃止しないのだ。どういった経緯で法が改定されたのかをたどりやすくなっているのだが、法そのものの条文量がとてつもなく多くなる。そう言ったことで市民に開かれた公文書館が必要になる。と言う事はだ、あれだけの面積の大国で言語がほぼ統一されていたと言うことになる。おかげでヨーロッパ系の言語は共通点が多い。


画像



中世の封建社会では軍事は傭兵となることが多かった為、農民には知識がいらないと言う考えだった。これを変えたはフランス革命だろう。共和制になることで、国民に兵役の義務が生じたのだ。だが文盲の人や訛りがひどすぎるとか、下手すると言語が違うとか、命令を正確に伝えるためにはどうすればいいのかと言う問題があった。まあ同じ地域の人で部隊を組んで綺麗なフランス語を話すひとをトップにおけば何とかなる。問題なのはこのころから実用化された大砲だ。これを扱うには数学が必要だった。計算ができる奴を集めて砲兵隊を組まなければいけない。

多分これが近代教育制度の始まりだろう。徴兵制を支えるためには標準化された国語と、算数が必要なのだ。あとは身体を鍛えるための体育だ。これは今の日本人でも納得するかもしれない。ローマ人も多分納得するだろう。これが必要最低限なのだ。

ただ教育制度については啓蒙主義の考えもある。教養が必要なのだ。このためには最低限でも文学や歴史が必要になる。のちに音楽や美術が付け加えられるのも啓蒙主義の考えだろう。上から降ってくる教育だ。

なお欧米でスピーチコンテストとかが教育にあるのは、まさしくローマ時代からの流れだ。人を動かすためには言語を駆使できなければいけない。

さて古代から中世を通じて一貫して必要だった教育がある。それは技術なのだが体験的に学ぶと言う意味では徒弟制度でよかったのかもしれない。だがその時代に応じた技術革新もあるし、それを開発した人には独占的な利益もある。切磋琢磨はあったと思う。ただ一番大きいのは顧客のニーズだ。代表は絵画だろう。中世ではテンプレのような構図でも顧客は満足したが、ルネッサンス以降、歴史や文学や聖書に詳しくないと仕事にならなくなってきた。もちろん下働きの人間には必要無いが、工房の親方には必要である。


そう言ったことが、徴兵制と啓蒙主義を結びつけた近代教育制度なのだろう。

それは国家が教育を保障するところから始まった。


画像



昔、先輩のカメラマンが私の後輩について、「やっぱり中卒から鍛えた方がいい」といったのを覚えている。そうカメラマンって大卒ばかりの世の中での発言だった。技術がなっていないと言うことのようだったが、今から思えば伝統芸能的な考えだったのかも知れない。

美学の継承は、とても難しい。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


続きを見る

トップへ

月別リンク

Mの/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる